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歌人、穂村弘さんが語る「世界と社会の間にあるもの」 【後編】

あるとき、書店でふと手に取った一冊の本。「短歌ください」。そこには一般の人々が投稿した短歌がたくさん集められていて、どの短歌を取っても、はっとするような驚きとセンス・オブ・ワンダーに満ちていた。すべての短歌に短い講評がついていて、その講評を書いていたのが、歌人の穂村弘さんだった。そこには穂村さんの気取らない愛情が満ちていて、わたしはそれらの講評を補助線にして、一首一首に込められた深い奥行きを堪能することができた。それまで短歌にそれほど馴染みのなかったわたしは、この出会いをきっかけに、穂村さんの歌集を読み漁るようになった。

穂村さんの短歌は、この世界を覆うヴェールのようなものを、鋭いナイフのように切り裂いて、その奥にあるものをあらわにしているように見える。31文字という切り詰められた文字を通して、この世界に隠された、見落としがちな愛おしさや、時に見てはいけないものが垣間見えてくる。穂村弘という歌人はどんな視点で、世界をどのように見ているのか。それが知りたくなった。席に着いた穂村さんは、カバンから一枚の紙を取り出して、「世界と社会」について、淡々と優しい口調で語ってくれた。

Interview by Masaki Tanaka | Photos by Naomi Circus

2017.06.23[Fri]

短歌の存在価値とは何か。

穂村: あるとき、楳図かずおさんの漫画を読んでてすげーと思った。「人間は美しく賢い生き物。ぼく達ゴキブリを救ってくれる」っていう言葉が書かれていたんだよね。「14歳」の中に。「さすが楳図かずお!」って、それを読んだとき、すごくドキっとした。実際にはそんなに優しくないでしょ人間は。ゴキブリなんか見たら殺せってくらい。だけど楳図さんは天才だから、ゴキブリが救われる社会像のイメージが彼の中にあるわけだよね。

 世界が社会と何が違うかっていうと、社会のメンバーは生きている人間だけなんだけど、世界の方は、ゴキブリとか野良猫とか野良犬とか日本狼とか幽霊とか妖怪とか死んじゃったおじいちゃんとかまだ生まれてない赤ん坊とか、それらすべてが構成メンバーなんだよね。短歌はそれらを扱うジャンルで、存在価値はそこにある。

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穂村: この「奇数本入りのパックが並んでる鳥手羽先の奇数奇数奇数」(田中有芽子)という短歌。

 スーパーに行ったら、手羽先が売られていて、パックされている手羽先が全部、奇数だったと。これは最初僕は意味がわかんなかった。でも、なんかすごい怖いなと思った。なんで奇数が怖いのか。それは生きてる時の鳥の羽が偶数だから。生きてる時は「2」なんだよね。つまり「3」でパックされるってことは、1匹半ってことなんだよね。で「一匹半だろうか、二匹半だろうか、死んでるんだから関係ないじゃん」っていうのが人間の側の言い分で、もちろんそうだよね。社会の中では手羽先は人間の餌だから。3や5で、何の問題もない。でも我々は、まだかすかに世界というものを知ってるから。あいつらの羽根は2だよなって。生きてるときの鳥の尊厳ってものを、どこかで感じるんだよね。だってこれ人間に置き換えたら、一人半用の棺桶なんてありえないでしょう。或いは葬儀場で「たまたま同じ日に2人の葬式がありましたから、まとめて焼いときました。お骨は混ざってますから、二つのご遺族で大体分けてお持ち帰りください」って絶対NGだよね。だけどそれがダメな理由は人間だからってだけで、鳥には平気でしている。で、そのことを我々はどこかでは感じている。だから、めちゃくちゃお腹すいちゃって、もうこのままじゃ死ぬぞっていうとき、自力で鳩を捕まえてその場で自分で殺して自分で焼いて食べるっていうのが、相対的には一番後ろめたくない。でも、どこかでパックされた3とか5の手羽先を、自分では一度も殺したことのないものを、一生食べ続けることには、「いいのかそれで」みたいな感じがあるわけですよね。(前編で登場した)排泄物の歌だって、ハイテクノロジーで吸い込まれて、270キロで運ばれていく、でもあれはお前のものだろ、あのうんこをお前はそのままにしておいて「いいのかそれで」みたいな奇妙な感覚がどこかにあるんですよね。

田中: そういう「いいのかそれで」みたいな違和感って、いまどんどん薄くなってきている気もしますね。

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人間は二重に生きている。

穂村: 人間は二重に生きているんだよね。社会の中に生きているけど、その外側に世界があって、世界の中にも生きている。で、社会と世界の隙間に「手羽先にされちゃう鳥」とか「ゴキブリ」とか「うんこ」とかがある。一旦排泄されたあとは一瞬も見たくないみたいな。「自分のうんこを一度も見ないまま死ぬ」感じって、「自分が一度も殺したことのない鳥を食べ続ける」感じとちょっと似ている。まだ我々はそこに違和を感じるんだけど、それがどんどん弱まってきているよね。

田中: その後ろめたさは、どこか「人間らしさ」みたいなことと繋がっている気がして、とても大切なことのように感じるんです。そして、それがどんどん弱まってきていることが、何か直感的に恐ろしいです。

穂村: おそろしいけど、やっぱり全体として僕たちが合意していて自ら進んで失っているんだよね。人間が快適で安全であるために、社会と世界の境界線をどこまで譲歩するかみたいなこと。例えば「死してなおはげめとばかりに墓前に供えられたる栄養ドリンク」(両角博守)って歌がある。これはお墓参りにいったら墓の前にユンケルがあって、それでぎょっとしてこの短歌を作ったということなんだけど、なぜ墓の前にユンケルを供えちゃいけないのかって話。だって、お酒は普通に供えるよね。「生きてるとき、お父ちゃんこれ大好きで毎晩飲んでたね。天国でも、楽しんでね」って供えるのはオーケー。だけど「生きてるときお父ちゃんこれ飲んで毎日会社で頑張ってたね。天国でもこれ飲んで頑張ってね」って言ってユンケルを供える。これはNG。つまりお酒は「世界」の飲み物で、「死者」も飲む。「死者」は「社会の中」にいなくて、「世界の中」にいるから死者も飲む。でもユンケルは「死者」は飲まない。生きてる人間しかユンケルは飲まない。つまりユンケルとお酒は決定的に違っていて、ユンケルは「社会の中」の飲み物。そのことを我々は普段は意識しないけど、墓にユンケルがあったらぎょっとするっていうのはやっぱりそこを知ってるからなんだよね。
 
田中: 人間が生きていくために、社会の領域が拡大していくのは、ある程度仕方がない気がします。ただ、「社会」こそが当たり前になって、その外側にある「世界」に気がつかなくなっていくのは、結構やばいと思いますね。

穂村: 個人個人の意識のある部分には、これじゃいけないっていうのは本当にあると思う。食べるために命を奪うのと防寒のために命を奪うのとオシャレのために命を奪うのと、段階があるわけじゃない。一番人間が厳しいときは食べるためにしか命は奪わない。でも、寒くて死ぬとなれば、防寒のために毛皮とか皮を使うことはある。さらに余裕が生まれたら、おしゃれのためにそれを使うこともある。欲望ってそういう風に段階的にどんどん強くなっていくでしょ。

田中: そうした「世界の中にある人間らしさ」みたいなものを描くとき、短歌にしかできないことってあるんでしょうか。

穂村: まず、めちゃくちゃ昔からある。オリジナリティーとかパロディとかそういう創作的な概念よりも古い。たとえば本歌取りみたいな技法があって、それはパロディの概念より、ずーっと古い。そして、単純にお金にならないジャンルだってことがありますよね。誰にも相手にされないジャンルでありながら、お正月になると天皇や皇后も歌を詠まれる。つまり、現在の社会システムの外側にあるものってことかなあ。

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田中: 「短歌ください」を読んでいて、その現在の「社会」システムの只中で生きながら、毎日の中に潜む「人間らしさ」を短歌という表現形式で伝えようとする人がこれだけいることに驚きました。

穂村: 僕たちが生きている時間のほとんどは実は「世界」の中にある。今この瞬間も、暑いようなねばねばするようなかゆいような微妙な肌の感じがある。だけど、それはメディアの中には存在しないもので、特にもう今は完全になくなってしまっているよね。僕たちの頃はまだ雑誌に載っている山口百恵のポスターを見たら、あれ、百恵ちゃん虫に刺されてるみたいなこととかがあったわけ。でも、今はそんなことはない。昔はそれを完全に除去するなんてできなかった。でも今だって我々はメディアの外で、ほとんどの時間は漠然とした不如意というか、なんとなく苦しいみたいな、苦しいというのも当てはまらないようなゆるやかな、生きていることの抵抗感みたいなものの中で生きている。だけどそれは徹底的に無視される。朝のテレビに出ているアナウンサーとかは、ものすごく朝起きしてるはずだよね。だけど、めちゃくちゃ早朝に起きていて目が腫れぼったいみたいなことは極力なくそうとしている。でもたまにあるよね。寝不足の顔してて面白いみたいな逆説がある。そして、そんなリアリティの中で生きているから、そのことが情報化されるのって短歌くらいなわけだよね。「ひも状のものが剥けたりするでせうバナナのあれも食べてゐる祖母」(廣西昌也)なんてさ、この情報は短歌にしか盛り込まれないよね。だって社会的には全く価値がないから。おばあちゃんがバナナの筋も食べるってことだよね。だけど、その背後にはおばあちゃんが生きてきた時間が張り付いていて、「あのバナナの筋を食べるのか食べないのか問題」みたいなことですよね。

田中: 一瞬のことですよね。

穂村: 一瞬が全てなんですよ。おばあちゃんがバナナの筋をつまんでちゃんと食べたのを見て、あっ、そういう人生だったんですねって。おばあちゃんが死んだ後は、この短歌が残らなければバナナの筋をわざわざ食べる人だったということは絶対にこの世には残らない。それは、その人がこの世にいたことの証なんだよね。

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田中: これらの短歌は、「世界」が立ち現れる一瞬を、鮮やかに拾い上げていると思うのですが、逆にいえば、それは、短歌にしかできないことなんでしょうか。

穂村: できなくはないけど、危険だよね。テレビで高倉健さんがインタビューをされていて、聞き手はSMAPの誰かだった。主演した映画の話をしていたんだけど、突然SMAPの誰かが「ところで健さんもコンビニとか行くんですか?」って聞いたのね。それまであんまり興味もなくてぼんやり見ていたんだけど、この質問が出たとき、僕は立ち上がってテレビの前まで行って健さんがなんと答えるのか聞こうとした。これはすごく危険な質問だと思ったから。そうしたら、高倉健さんはごまかした。「うーん、スタッフとしまむらに行ってジャンパーを買ったよ」みたいに。しまむらはコンビニじゃないだろ、と僕は思った。しまむらはいいんだよ行ったって。

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コンビニ「でも」行くかって何なんだよ。

穂村: 問題は高倉健さんがローソンやセブンイレブンに行くのかどうか。しかしこれは危険な問いだと思う。で、その答えから危険を察知したSMAPの誰かは質問を変えた。つまり、コンビニというのは、我々の日常そのものなんだよね。そして、高倉健さんは戦後の日本人のイメージを代表する男性なわけ。女性なら、吉永小百合さんだよね。だけど、二人ともコンビニに行くところが想像できない。これは、俳優だから想像できないのではなくて、「高倉健」と「吉永小百合」だからできない。これは、天皇や皇后がコンビニに行くことがイメージできないのとパラレル。なぜなら、あの二人はもう「皇族」みたいなものだから。吉永小百合さんは彼らの手の回らないことをやったりしてる。広島に行って原爆の詩を朗読したりしてるじゃない。でも、ここには非常に奇妙な分裂があると思う。戦後の我々の望みと欲望をまさに形にした「コンビニ」と、我々が自らの精神性を代表するとみなした「高倉健」や「吉永小百合」とが、こんなに分離してしまっている。おかしいんだよ、これは絶対。我々は「コンビニでも行くか」とか言うんだよ。「でも」ってなんだよって話。「コンビニこそお前だろ」ってことなのに、我々は、コンビニに仕方なく行くかのよう言ったりする。見下ろした感じで。でも、嘘なんだよ、それは。コンビニこそ「俺」。紙パックジュースこそ「俺」なんだよね。だけど、紙パックジュースを健さんが飲むところは想像してはいけない。先の尖ったストローをぷすって紙パックに刺してチューチュー吸って、最後の方は、ズズズッって吸う健さんは絶対映画には出ない。コンビニでカロリーオフのヨーグルトをカゴに入れるところもね。

田中: メディアの中に映されているものが自分のリアリティと乖離しているんですね。それで、乖離したメディアの中にある世界の中に、自分がいると思ってしまうから、自分が生きている実感とか、自分のリアリティがわからなくなってしまう。

穂村: 一方で、リアリティを主張する人が何を言うかというと、単純に昭和は良かったとか、戦前は良かったとか、家族の団欒は良かったとか、近所付き合いは温かかったとか言う。これはまずいでしょう。そりゃコンビニをリアリティだと認めることは苦しいけれど、「近所付き合いサイコー!」みたいな単純な話にしたら、それは良くない。その隙間にあるはずの、そして誰もそこに玉を投げない膨大なリアリティを誰かが可視化しないといけない。短歌はやっているんだけど、短歌なんてなんの力もないから。それこそ電通がやらなきゃ(笑)。強いて言えば、お笑いの人たちがやってるんだよね。芸人さんがあんなに注目されるのは、彼らがその間にあるリアリティをギリギリの高度なバランス感覚で提示し続けているから、我々は彼らの一挙手一投足を見てしまう。ある意味命を削ってやっているという感じですよね。だからなのか、年をとるとどんどん顔が苦しそうに変わってゆく。たけしさんとか松本さんとか、又吉さんだってそうだよね。

田中: WEBは昔、そういうリアリティを提示する役割を担っていたと思うけれど、徐々にメジャーメディア化していってますよね。

穂村: WEBこそ全然プロじゃない人たちが小さなメディアを手にしたら、そこでリアリティが蘇るみたいな期待というか幻想があったけど、でも実際は全くそうではなくて、空と猫とご飯を素敵な感じで撮って。一人でブランディングをして、「見られたい自分」をつくる。そうすると結果的にみんな一緒になる。

 でもYoutubeで自分のことを配信したり、一人であんなことができるなんてすごいよね。単純な検索だって昔だったら一千万とか取られてもやりたかったことだよね。「ただで何回検索してもいいの!?」とか思っちゃう。昭和の人間だよね(笑)

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フィルタリングを変える、ということ。

田中: わたしはコピーライターという仕事を生業にしているのですが、その仕事にも、生活の中にある、みんなが見過ごしているような、でも大事なことを見つけて言葉にする、という側面があると思っています。短歌にも同じようなところがあると思うのですが、そうした見過ごしがちな「世界」を見つけるためには、どうすればいいんでしょうか。

穂村: 今こうしている時に外界に存在している情報は、原理的には無数ですよね。それをそのまま全部キャッチしたら神様みたいなこと。もちろん、そんなことはできないから、フィルタリングを無意識のうちにかけている。ものすごくきめ荒くしか情報をキャッチしていない。クリエイティブな人や子供や年をとった人や外国の人、あるいは気が狂った人とかは、何が違うかっていうと、このフィルタリングが違う。我々はかなり長い時間をかけてフィルタリングを共有している訳ですよね。ここに短歌が一つあります。「「やさしい鮫」と「こわい鮫」とに区別して子の言うやさしい鮫とはイルカ」(松村正直)。子供は自分が発見したなんて思わない。単にイルカって言葉を知らないだけ。我々はサメを見たら、これはサメ、イルカを見たら、これはイルカっていうフィルターを瞬時にかけてしまうけど、そのフィルターを子供はまだ持ってないから、「んー」って二つを見て、「こっちは優しいサメ、こっちは怖いサメ」って言う。それが、従来のフィルターを持った大人からすれば、それが新鮮な発見のように見えるということですよね。

 つまり、フィルタリングを変えればいいということ。「私の排泄物が私より遠くへ旅をする新幹線」という歌も、排泄物とかって、意識にフィルターをかけやすいものですよね。わざわざクローズアップしないから。だからこの人はフィルタリングがちょっとずれてる。日本狼の歌も同じ。日本狼アレルギーかも、なんて考えても全く時間の無駄で、なんの意味もないから、ここは普通は無視するゾーン。つまり、この人の網の目はズレてる。でも、そのズレ方は無根拠ではなくて、我々は普通「社会」にフィックスするんだけど、この人は「世界」に広げたゾーンを持っている。その分、社会でサバイバルするために効率が悪くなっちゃう訳ですよね。子供のままのフィルタリングでいられないのは社会で生き延びるための効率が悪くなっちゃうから。つまり結論を言えば、生き延びるために特化したフィルタリングを捨てればいい。非効率とか、無意味とかそういうものをキーにして、「あ、ばあちゃんがバナナのすじを今食った」とか社会的にはゼロ価値の情報をもう一度見ることができるかどうか。短歌はシンプルだけど、コピーライティングは非常に高度な仕事で、一旦フィルターを外して見た「世界」をもう一度社会化して、今度は「社会」の中のメッセージとして提示するという、逆説的な仕事だよね。でも、みんなをどきっとさせるには、たぶんそれが要るんでしょう。

田中: ズレたフィルターで「世界」を見る、という意味においては、これらの短歌を書いている人やコピーライターと、狂人は同じようなことをしているとも言えるんでしょうか。

穂村: 「奇数奇数奇数…」っていう歌、僕も何度も手羽先のパックを見てるはずだけど、スルーしてた。この人には、奇数をピックアップする何かがあったってこと。「社会」と「世界」の二重性をそこに見たんだよね。でも「世界」の側に立てというのは簡単だけど、それは同時に、社会的存在である自分を弱くしますよね。この方向にどんどん行ったら、死んだものたちや精霊の声が聞こえるみたいなゾーンにいく。世界的なクリエイターってそういう存在かもしれない。でも世界的なクリエイターになれればいいけど、普通の社会では単に狂人として扱われる可能性だって、あるんじゃないかな。

「社会」の外側にある愛おしい何か。

田中:ズレたフィルターで「社会」の外側にある「世界」を見つけて言葉にしたとき、その言葉が共感を生む。そこには何か、見落としがちだけど見落としてはいけないものがある気がします。

穂村: 「ネズミ捕り四ヶを置くもひとつだにかかつてゐないかしこいネズミ」(中村清女)これは、おばあさんがつくった歌なんだけど、この短歌の面白さは、どこにあるかというと、ネズミに悩まされてネズミ捕りを4個も置いたのにかからなかった。普通はそこは「ムカつくネズミ」だよね。でもこの「普通は」っていうのは、「社会的な存在としては」っていう意味で、そこが微妙にゆるくなってるのが面白いんだよね。もちろんネズミは嫌なんだけど、社会的な存在って、つまり営業部長みたいなもので、優しい鮫とか怖い鮫とか言ってた子供とか90歳のおばあさんとかは、バリバリの営業部長に比べて社会の中枢部にいない。もっと言うと、動物とか死者に近い訳だよね。そのときゾーンがゆるんで、一匹もかからないネズミをムカつくだけではなくて「まあ賢いわ」っていう精神の面白さ。「ムカつくネズミ」って言うおばあさんと「賢いネズミ」っていうおばあさんとどっちがいいかっていったら、「賢いネズミ」っていうおばあさんの方がかっこいいよね。心に奥行きとか弾力があって。これは中学生くらいの女の子がつくった歌だけど、「大仏の前で並んで写真撮るわたしたちってかわいい大きさ」(平岡あみ)。これも「かわいい大きさ」っていうのがポイント。ここが「とても小さい」でも、意味としては同じ。でも、どっちの女の子とデートしたいかっていったら、大仏の前で写真撮って、「私たちって可愛い大きさだよね」って言う子の方がキラキラしてて、いっしょに時間を過ごしたくなる。「とても小さい」っていうのは単にサイズの問題なんだけど、ここでこの子が本当に言いたかったのは、サイズだけの問題ではないよね。大仏よりも人間の方が小さいってことの他に、暖かいとか柔らかいとか先にこの世から消えるとか。命の多義性ってことで、ここに詩の本質がある。

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田中: 「社会」の中で、我々はフィルタリングして効率的に生きている一方で、その外側にある「世界」に強い愛情を感じてしまう生き物なんですね。

穂村: バナナのすじのところを食べるとかってことは、死んでしまったら絶対に残らない人間の属性ですね。もしそのおばあさんがなにか大きな業績を残していたら、その業績によって名前が残る。だけどバナナのすじのところを食べた、なんてことは残らない。でも、人間の愛情はそこにいくんだよね。だから、CMなんかでも、そういうポイントを狙おうとする。という意味では、広告っていうのは興味深くて罪深い仕事だよね。


人間は「社会」のルールの中でしか生きられない。一方でわたしたちは社会のルールでは規定できない「世界」の中に生きている。社会のルールが否応なく、しかしその違和感を強めながら世界と乖離していく中で、短歌は小さいけれど強い声で、その危うさを訴えてくる。広告という仕事の罪深さをさらりと指摘した穂村さんは、いつのまにかひぐらしの鳴き声に変わった蝉の声の中を、涼やかな空気をまとって帰っていった。その後ろ姿は、社会の中にありながら世界の声に耳を澄ましているように見えた。

  • 穂村弘(ほむら・ひろし)
  • 1962年北海道札幌市生まれ。1990年代の「ニューウェーブ短歌」運動を推進した、現代短歌を代表する歌人。歌集に『シンジケート』『ドライ ドライ アイス』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』など、エッセイ集に『世界音痴』『もうおうちへかえりましょう』『絶叫委員会』など。他に対談集、短歌入門書、評論、絵本、翻訳など著書多数。近刊に『野良猫を尊敬した日』がある。
  • MASAKI TANAKA
  • Copywriter / / dentsu
  • 1999年電通入社。関西支社にて、コピーライター/CMプランナーとして、コミュニケーション戦略立案とクリエーティブ制作に従事。現在、本社未来創造室を兼務。紙の本と本屋をこよなく愛しています。