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歌人、穂村弘さんが語る「世界と社会の間にあるもの」【前編】

あるとき、書店でふと手に取った一冊の本。「短歌ください」。そこには一般の人々が投稿した短歌がたくさん集められていて、どの短歌を取っても、はっとするような驚きとセンス・オブ・ワンダーに満ちていた。そのすべての短歌につけられた講評を書いていたのが、歌人の穂村弘さんだった。そこには穂村さんの気取らない愛情が満ちていて、わたしはそれらの講評を補助線にして、一首一首に込められた深い奥行きを堪能することができた。それまで短歌にそれほど馴染みのなかったわたしは、この出会いをきっかけに、穂村さんの歌集を読み漁るようになった。

穂村さんの短歌は、この世界を覆うヴェールのようなものを、鋭いナイフのように切り裂いて、その奥にあるものをあらわにしているように見える。31文字という切り詰められた文字を通して、この世界に隠された、見落としがちな愛おしさや、時に見てはいけないものが垣間見えてくる。穂村弘という歌人はどんな視点で、世界をどのように見ているのか。それが知りたくなった。席に着いた穂村さんは、カバンから一枚の紙を取り出して、「世界と社会」について、淡々と優しい口調で語ってくれた。

Interview by Masaki Tanaka | Photos by Naomi Circus

2017.06.22[Thu]

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穂村: これ、作者の名前が書いてあるのが原作で、その隣が僕のつくった改悪例なんです。

 添削の反対だよね。こうやるとダメだよっていう。比べると原作のよさがわかる。この「空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態」(平岡あみ)っていう歌は、もっとはっきり書くことは簡単で、「わたしの部屋は散らかっている」とすれば普通の日本語としては正確だよね。でも短歌はそういう意味で情報を提示するものじゃない。「散らかっている」って書いちゃえば読んだ人はそれ以上は考えないよね。だけど「そういう状態」って書かれると、「えっ、どういう状態?」って自分の頭で一瞬考える。

 つまり、言葉って兼用のツールなんですよね。ピアノとか絵筆とか彫刻刀とかは専用のツール。ピアノの前に座っている人がいたら、その人はもう表現をするってことじゃない?彫刻刀を持ってる人がいたら、その人はもう表現をする。でも、鉛筆が持っている人がいたからといってその人が表現をするかどうかは分からない。議事録を書くとか、ぜんぜん表現じゃないことをするかもしれない。言葉だけは兼用で、二重に使われている。我々はコミュニケーションや情報伝達ツールとしての言葉の方を圧倒的に重く見ているから、短歌のような「そうじゃない」言葉の使い方に慣れてない。

田中: 言葉というのは誰もが使える普遍的なテクノロジーだと思うんですが、一方で、短歌のような「そうじゃない」使い方もできる。そういう意味では、ものすごくハイテクノロジーなもので、一見、便利で簡単に見えつつも、時に送り手と受け手の間に、大きなギャップが生まれることもある。時々短歌を読んでいて、意味が分からないものがあったりするんです。で、あとで解説なんかを読んで、ああそういうことかと思ったりする。コミュニケーションのツールとしてみたときに、そういうギャップがあることについては、どう思われますか?

穂村: 悩ましいところですけどね。短歌とか詩は圧縮された情報みたいなものだから、受け手側に解凍するソフトにあたる技術がないと読みきれないわけですよね。たとえば将棋や囲碁もそう。囲碁を全然知らない人が盤を見て、「ここちょっと富士山の形に似てますね」とかいってもそういう話じゃないわけです。本人にはもう富士山に似てるとしか言うことがないんだけど、でも、もし囲碁を知ってる人が盤面を見たら、全然違う情報がそこから浮かび上がってくる。

 あるとき、僕の友達が電車の中で女性週刊誌の吊り広告を見てたのね。すごく熱心に見てるから、「何が面白いの?」って聞いたら「えっ、書体」って言うの。その人はデザイナーで、見ていたのは内容じゃなかった。でも僕には書体のことなんて分からない。

田中: 同じものを見ていても、見る側の違いによって受け取っている情報は違うっていうことですね。

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穂村: 将棋や囲碁は、はじめからみんな別なルールがあるんだってことを知ってるじゃない。でも言葉に関しては、みんな自分が読む能力があるって思ってるから、逆に詩とか短歌とか俳句みたいな韻文を見せられた時にすごいプレッシャーを感じる。自分が知っているはずだと思っていた言葉が、突然外国語みたいに読めなくなるから。それが本当の外国語や古文なら自分が読めない理由に納得がいくけど。過剰に韻文が恐れられる理由は、自分がわかっているはずのものが分からないという、そのプレッシャーなのかなと。アートでもそういうことはありますよね。ファインアートを見てたじろぐことってあると思う。でもほんの1行くらい解説があれば、みんなわかるんです。僕はそういう仕事をわりとよくしていて、現物だけではわからないんだけど、ちょっとだけ補足すると、わかるようになる。原液のままの強いウィスキーもチェイサーがあれば飲めるとか、オンザロックにすれば飲めるとか、そういうイメージですね。

田中: 書き手が伝えたいことと異なることが、読み手に伝わっていく、という、ある種の誤読が起こる可能性についてはどう思われますか?

穂村: もともと伝えたいことがはじめにあって、それがピアノとか彫刻刀とか絵筆とか言葉のような、色々なツールを経由して外に出て行くっていうモデルが実はあんまり正確じゃないと思う。そうしないと話が難しくなっちゃうから、みんなそのモデルを使って説明しようとするけど、例えば即興の演奏とか作曲家が曲を書くとき、伝えたいメロディーが事前にあるわけじゃなくて、書かれたときにはじめてこの世に伝えたいものが、その形で出現するわけです。音楽や彫刻や抽象絵画とかだと、そのことはかなりわかりやすい。言語表現だと、まるで伝えたいことが事前にあるかのようにイメージされるけど、それはちょっと違っていて、むしろなぜその言葉が書かれたのかっていうことを、本人もそれを読む人も、あとから考えることの方が意味があると思う。

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穂村: 例えば「私の排泄物が私より遠くへ旅をする新幹線」(奥村知世)っていう短歌も、多分本人は、このことがめちゃくちゃ書きたいと思って書いたわけではなくて、なんか書いてしまったんだよね。でも、書いてしまったあとで、確かにこれはなんか私気になってたわ、って思う。読者もこれを読んで「これはあるよね」と思う。自分が名古屋でトイレに行って、京都で降りる。でも自分の排泄物は博多まで時速270キロですっとんでいく。「時速270キロの私のうんこ」みたいな、変な感じってあるよね。それは、いわゆる感動とか喜怒哀楽じゃないんだけど、でも「ある共感」がここにはある。と同時に、驚異というか、発見、ワンダーがあるよね。我々にとって共感はわかりやすいんだけど、発見やワンダーの方は、あんまり得意じゃなくなってる。でも、ここにはその両方があるから、これぐらいの短歌だとなんか面白いって思う人がいる。でも一方で、なんのためにこんな汚いことが書かれたのかぜんぜん分からないって人も、たぶん一定数いるよね。

 やっぱりこれは新幹線の方が、鈍行列車とかよりいいわけだよね。テクノロジーの粋を集めた新幹線が俺のうんこを運んでいくぜ!みたいな。一つには、「排泄物」というものが、現代では隠蔽されるものだからっていうのがある。テクノロジーの粋を集めて隠蔽されるもの。僕が子供のころは「ぼっとん便所」とかだったから否応なく排泄物と接してきたけど、今は例えば新幹線だと、ものすごい真空みたいなので吸い込むじゃない?あれも、なんか変な衝撃がある。「そこまでしなくても」みたいな、変な衝撃。

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「共感」の危うさ。「発見」の怖さ。

穂村: 共感っていうのがなぜ受け入れやすいかっていうと、それは自分が薄々なんとなく思っていたことを強化してくれるからだと思うのね。「そう、それも俺なんとなく思ってたんだよ、ズバッと言ってくれてありがとう」みたいな快感。でも、それってある意味、危うい。自分が変化するきっかけにはならなくて、自分がそのままでいいんだなっていう感覚を強めると思う。それに対して発見とか驚異とかっていうのは、それまでの自分とか、自分の見ていた世界を覆してしまうきっかけになるものだから、ある意味では怖いものだよね。昔の若い人たちの「今までに一度も見たことのないものを見たい」みたいな感覚は今の若い人よりもっと強かったと思う。それがあるときからどんどん共感優位になっていって、もう今の自分を改変して更新する余力がなくなってきている。本の題名でも、10年ぐらい前は「幸せになるための99の方法」みたいな感じだったのが「幸せになるための7つの方法」みたいになって、最近は「たった1つのなんとか」とか「1分でなんとかは変えられる」みたいになっている。

  それは、みんなどんどん余力がなくなって、「この場で楽になりたい」とか、「今すぐモテたい」とか思うようになっているからだと思う。でもやっぱり、それは一種の詐欺だよね。

 その感覚を、社会全体が強化しているもう一つの理由は、ユーザー感覚の強さだと思う。昔は、お金を持っている人が絶対的にお客さんでえらいっていう価値観はそこまで社会に浸透していなかった。でも、その価値観はどんどん強くなっていて、実は、それはお客さん自身にとっても危ういこと。お金さえ払えば一切の属性は問われないってことなんだよね。でも、現実にはそんなはずはない。もともとのその人の能力とかがあるわけだから、いくら大金持ちでも手が届かないものがあって、それは例えばトレーニングによってしか手に入れることができないものなんだけど、それがスキップできるかのような感じになってきている。

田中: 広告業界においても、どんどんそういう傾向が強くなっている気がします。一部のクレームによって、CMのオンエアが中止になったりすることが増えている。どうしてそういう傾向が強まっているんでしょうか。

穂村: 未知への憧れが薄れているよね。バブル期までは自分が見たことのなかったかっこいいCMやぎょっとするようなコピーライティングに対する憧れみたいなものがすごくあったと思う。だけど今は、ダサくてもお金を持っていればえらいから、ユーザーであるマジョリティが納得しなければ、それはNGだということになっているので、尖った表現は昔ほど許されなくなっちゃった。だから、まるで昔に戻ったみたいだってCMを見て思うよね。昔のローカルCMみたいだなって。なんのCMか分からないようなエッジィなものがかつてはあったと思うんだけど、それに憧れるっていう感覚はかなり薄れている。

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田中: この間、カンヌライオンズという、いわゆる広告クリエイティブの世界的なカンファレンスに行って、いろんな広告表現を見たんですが、昔に比べて、腹を抱えて笑えるものや、ブラックユーモアみたいなものが、かなり減っているように感じました。大きなテーマは”for good”、つまり「世の中のためにいいこと」にシフトしていて、それ自体は悪いことではないと思うんですが、なんだかちょっと危うい気がしました。強い共感はあるけれど、なんか真面目すぎて、笑えない感じ。

穂村: それは難しいですよね。確かに、これはないよなっていうブラックさも、昔のものを見るとあるよね。でもそこにあったブラックさよりも、もっと大きな意味での危うさが、今あるような気がするし、それに抗うのはすごく難しいですよね。ビートたけしさんとか、立川談志さんとか、筒井康隆さんとか、美輪明宏さんとか、それを絶妙なバランスでできる、あるいは、この人はこれ言ってもOK、みたいな人がいるわけだけど、でも、そういう存在になるのはどんどん難しくなっている。

田中: 筒井康隆さんの小説にあるドキッとする感じは、ある意味、現実化している気もします。むしろ現実の方が異様になっているというか。

穂村: 筒井康隆さんが何かのインタビューで、「あとは何がしたいですか」って聞かれたときに、「死ぬ前に戦争が見たいな」と言っていて、これは、筒井さんだからこそ言えたと思うんだよね。そう言ったことと筒井康隆さんが戦争に賛成しているってことは単純にイコールではない。でも、そのぎりぎりのニュアンスがどんどん通じなくなってきて、順接でしか捉えられなくなってきた。逆説とか反語とかブラックユーモアとかアイロニーは力をもてなくなってきた。

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「世界」と「社会」は何が違うのか。

田中: ところで、今日、準備していただいた資料にある、このタイトルの「世界と社会」というのはどういう意味なんですか?

穂村: 「世界と社会」は何が違うのか、っていう話です。例えば、ここに「乗物の酔い止め薬のねむくなる成分は蝶にとっての致死量」(鈴木美紀子)っていう短歌がありますよね。どのくらいの人がこれを面白いと思うかはわからないけど、僕は素晴らしいと思う。蝶は人間用の酔い止め薬なんかのまないから、この想定には意味がないよね。でも、どきっとする。自分がある薬をのむとき、蝶だったらこれで死ぬんだなっていう想像には、どこかすごく甘美なところがある。

 その次の短歌もちょっと似てるんだけど、「私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない」(田中有芽子)という歌。これは、なぜ分からないかというと、日本狼はもう絶滅していないからだよね。もしこの人が、夜お風呂に入りながらこのことを思いついて、次の日会社に行って、会議の休憩時間に「部長、わたし、日本狼アレルギーかもしれないんですけど、もう分かんないんですよねー、いないから」って言ったら、部長は多分暗い顔をして、こいつやばいなって思うと思うんです。だけど、もしこれが「わたし、猫アレルギーなんですよねー、猫好きなのに触れないんですよ」だったら、会社での会話として、全然OKなわけですよね。なぜ日本狼アレルギーはやばくて、猫アレルギーはOKなのか。もちろん、それは「日本狼はもういないからそんなことを言うのは無意味である」ってことなんだけど、実は話は逆で、「みんなが部長のように考えるように社会がなったから、日本狼は絶滅したんだ」っていうのが、短歌や詩の側の言い分です。

日本狼も野良犬も変なおじさんもいなくなった。

穂村:  なぜ日本狼や野良犬はいないのに、野良猫はまだ存在するのか。野良犬はいたんだよね、僕が子供の頃までは。でも、ここ数十年でいなくなった。野良犬の方が、野良猫よりも強いはずなのに、野良犬はいない。野良猫はいる。この理由は、野良犬の方が人間にとって脅威だったっていうことで、もし野良猫の10匹に1匹が猛毒をもっていたら、もう野良猫は絶対に絶滅させられてますよ。猫に毒はないからまだいる。つまり、日本狼や野良犬は、社会の枠の中に入れてもらえなかったんですよね。基本的に社会の枠の中に入れる構成メンバーは、生きている人間だけなんですよ。あとはペットとかが「まあ一応いてもいいよ」って、みなされているだけで、基本は生きてる人間だけ。

 野良犬はいなくなった。で、他にもいなくなったのがいて、それは、僕が子供のころなんかは、どこの町にも一人か二人いた「ちょっと変なおじさん」みたいな人。僕らが野球をやっていると、勝手に近寄ってきて「ちょっとバット貸せよ」とか言って、「俺、巨人の二軍にいたんだよ」とか言ってくるおじさん。

 「一軍にいた」っていうとばれちゃうから、絶対「二軍」って言うんだよね。で、バットを貸すと、三振して「もう一球」とか言う。嫌なんだけど、まあ一応共存していた。そういうおじさんが、今はもう多分、駆逐されてしまった。今、そんなおじさんが子供たちに「ちょっとバット貸せ」とか言おうものなら大変ですよね。つまり、社会っていうものの輪郭が縮小されて、下手したら野良猫よりも先に、変わったおじさんとかホームレスとか独居老人とかシングルマザーとか、社会的な弱者として生きてる人間がいられなくなる可能性がある。

 僕が若かったころ、友達がこういう短歌を作った。「どこの子か知らぬ少女を肩に乗せ雪のはじめのひとひらを待つ」(荻原裕幸)。これは当時、叙情的でロマンチックないい歌だと、みんな思った。寡黙な青年が公園で知らない少女とコミュニケーションをとって、じゃあ肩車をしてあげるよと。で、肩車をしてあげて、雪がふりそうだなって思いながら、一緒にその最初の一片を待つというのは、すごくロマンチックだと、1980年代には思われた。ところが、今この短歌を発表したら、作中の<私>は不審者扱いですよ。どこの子かわからない子をいきなり肩車しちゃったら、それはもうNGですよね。つまり、1980年代から現在までの30年間で社会のOKのコードは激変したわけですよね。社会の輪郭はどんどん縮小して、どんどんマイノリティーや弱い者は、いてはいけなくなって、お金持ちで健康で強い者だけが生き残る。さっき危ういっていう直感があるとおしゃっていたのは多分そういうことじゃないか。「みんなのため」と言うけど、その「みんな」というものの枠組みが、どんどん縮小されている。「え、野良犬はみんなに入ってなかったんだ!?」みたいな。

(後編に続く。 「短歌の存在価値とは何か。」)
  • 穂村弘(ほむら・ひろし)
  • 1962年北海道札幌市生まれ。1990年代の「ニューウェーブ短歌」運動を推進した、現代短歌を代表する歌人。歌集に『シンジケート』『ドライ ドライ アイス』『手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)』など、エッセイ集に『世界音痴』『もうおうちへかえりましょう』『絶叫委員会』など。他に対談集、短歌入門書、評論、絵本、翻訳など著書多数。近刊に『野良猫を尊敬した日』がある。
  • MASAKI TANAKA
  • Copywriter / / dentsu
  • 1999年電通入社。関西支社にて、コピーライター/CMプランナーとして、コミュニケーション戦略立案とクリエーティブ制作に従事。現在、本社未来創造室を兼務。紙の本と本屋をこよなく愛しています。