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リヤカー界のラストサムライ「ムラマツ車輌」は、 いかにして激動の時代をサバイブしたか。

 日本発祥の輸送機器、リヤカー。古くからある大八車と、海外から伝わったサイドカーが日本で融合し、明治時代末期に誕生したと言われている。昭和という時代には、日本のいたるところでリヤカーが物を運んでいた。八百屋、魚屋、花屋、おでん屋・・・。そして現在、リヤカーを主に製造するメーカーとしては日本で唯一残っているのが、東京の下町・南千住にある「ムラマツ車輌」である。社員6人の小さな会社が、日本の、つまりは世界のリヤカーづくりを担っている。

 「未来が見つかるカルチャーメディア」を謳うCOTASで、あえて昭和の匂いがするリヤカーというものを取り上げたのには理由がある。リヤカーにとって向かい風となった昭和40年代のモータリゼーション。時代の大きな変化に耐えられずライバルたちがつぎつぎ倒れていく中、なぜ彼らだけが生き残ることができたのか。何を考え、何を大切にし、どう行動してきたのか。それは単に過去を知るというだけでなく、現代に生きる私たちにとってのヒントにもなるのではないか。

 21世紀にあっても人々はサムライから生き方を学ぼうとする。刀ではなくリヤカーを武器に生きてきたラストサムライは、どのようにサバイブしたのだろう。

Interview by Eita Nakajima | Photos by Naomi Circus

2016.12.02[Fri]

 ムラマツ車輌は、リヤカー製造メーカーとして戦後まもない1951年(昭和26年)に創業。現在は山田光男さん(68)が3代目の社長をつとめる。静岡出身の山田さんだが下町暮らしが長いからか、気っ風のいいチャキチャキの江戸っ子のような印象を受ける。

山田さん「静岡にいた頃はバイクが好きで。当時はカミナリ族なんて言われてたね(笑)。高校出てから地元の大手電機メーカーに入社したんだけど、やんちゃすぎて一年で退社。知り合いのつてで上京して紹介されたのがいまの会社だった。車輌って名前が付いてたからてっきりクルマをつくる会社かと思って。そしたらリヤカー屋だった。ふしぎと水が合ったのか、それから半世紀近くこの会社で働いてます」

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 工場にはたくさんの製作途中のリヤカーが並ぶ。大きさも形もいろいろだが、どれも基本的にはタイヤと鉄パイプでできている。リヤカーの良いところは、車が通れないところでも人力だけで大量の荷物を運べること。さらに燃料がなくても人さえいれば動くことから、近年は災害時の輸送手段としても見直されている。今も毎月数十台のリヤカーがこの工場から出荷されている。

山田さん「たぶんみなさんがいちばん目にするのは、宅配業者のリヤカーだね。自転車で引っ張ってるアレね。商店街とかクルマが入れないところで荷物を運ぶのにとても便利。10年前に道路交通法が改正されて駐車違反の取り締まりが厳しくなってから、各社さんからの注文が増えて、毎月100台以上出たこともあった。環境意識が高まった時期でもあったし。全国で8000台くらい出た。最近の大ヒットだね。でも頑丈すぎてなかなか壊れないからその後はそれほど注文が多くないね(笑)。修理とかパンク直しくらい。たまにお宅のリヤカー30年使ってます、ぜんぜん壊れません、って電話をいただくんだけど、正直あんまり嬉しくない(笑)。新しいの買って欲しいよ」

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 リヤカーの上に調理設備を乗せれば屋台になる。ラーメン、そば、おでん。コーヒースタンドの屋台をやりたいという女の子がインターネットでムラマツ車輌を見つけ、訪ねてきたこともあった。山田さんは屋台作りの面倒を見てあげ、彼女は10年経ったいまも元気に屋台を引っ張っている(昨年その歩みが一冊の本になって出版された)。

山田さん「昔は東京中に屋台がいた時代もあったけど、最近は営業許可が厳しくなって、屋台商売もなかなか大変みたい。博多の中洲みたいに、隅田川沿いにわーっと屋台が集まったら素敵だなと思うんだけど。ああいうの好きだなあ」

 道路交通法。屋台の営業許可。リヤカーを取り巻く状況の変化が、時に追い風になり、時に向かい風となる。そういう中で半世紀、山田さんはリヤカーを作り続けてきた。

山田さん「昔は工場で使うようなリヤカーしか作ってなかったんだけど、このままじゃ先細りするってことで、ホテルや宴会場に営業したんだよ。コネがないから上からじゃなく、下(現場)からね。そしたら結構気に入ってもらえて、そこからどんどん仕事が増えていった」

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 近年ではリヤカー作りの知見を生かし、ホテル等で料理を運ぶのに使われるワゴンや、ゴルフの手押しカート、棺桶を運ぶストレッチャーなど多種多様な製品をつくっている。カタチは違えどどれも確かな技術力に支えられたものだ。リヤカーは時に局所的に何トンもの力がかかる。高い溶接の技術が必要なのだ。そのあたりがムラマツ車輌生き残りの理由かと思ったが、山田さんはこともなげに笑って言う。

山田さん「リヤカーってのは、鉄パイプとタイヤでできてる、ものすごくシンプルなもの。そんなに難しいことはない」

 職人ならではの謙遜だと感じたが、その本意はほかにあった。リヤカーは基本的にすべてがオーダーメイド。客の要望に合わせてつくる特注品だ。技術はもちろん大事だが、客が何を望んでいるのか、それをどう実現するか、そこがいちばん難しいところだと言う。

山田さん「お客さんのところへ行って、話を聞くわけです。何を運ぶか、どういうふうに使うか、どういうことを望むか。それで、その場でスケッチを描いちゃう。こんな感じですか?って。大きさは、形は、色は。実際に物を作る職人が行くから話は早い。ああだこうだしながら段々と詰めていく。お客さんがどうしたら満足してくれるか、喜んでくれるか。そこがいちばん大事で難しい。そしてこの仕事の面白いところ。たとえば、ホテルで使われる料理を運ぶワゴン。あれなんかはバックヤードではかなりハードに使われるから、どうしても壊れてしまうことがある。 だから、直しやすさも考えて設計する。早く直して現場に戻してあげられるように。作りました、壊れました、修理できません、じゃ仕事にならないでしょ。ちゃんと品物が作れて半人前、お客さんに喜ばれて一人前」

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 リヤカー界のラストサムライのもとには、日々いろいろな相談がやってくる。

「フランスの有名パン屋さんの移動販売用ワゴンを作ったとき。図面とか無いんだよ。本国で撮った小さな写真見せられて、これと同じものできますか?って。 そういうこともよくある。フランスまでの運賃くれれば見てくるよって言ったんだけどダメでさ(笑)。どうやって作ってるのかなって、自分で想像するしかない」

 時には無理難題と思われる注文もある。そんな場合でもなんとかして作り出す。それがムラマツ車輌の伝統だ。驚いたのは、それがリヤカーだけでなく、すべてのモノづくりに浸透していることだ。じつはこの会社ではリヤカー以外にもさまざまな物を作っている。ワゴン作りで関係のできたホテルから、なんでも作れる腕を頼りにされて「ちなみにこんなの作れます?」という相談を受けたことがきっかけだ。パーティに使う演台、タクシー乗り場の標識、看板、プラカードなど、リヤカーとはまるで関係のない、タイヤのないもの、鉄を使わないものも多かった。そんな畑違いのオーダーにも山田さんは応え続けた。

山田さん「ゴルバチョフが来日した時、演説をする台をつくったんだ。彼はどのくらいの高さだとやりやすいかわからなかったから、高さ違いで2種類つくってあげたよ。ちょっとした差でずいぶん使い心地が変わるからね」

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 仕事への向き合い方として何を大事にされていましたか、という質問に山田さんはしばらくウーンと考えてから答えてくれた。

山田さん「はじめての仕事、無理めな仕事でも、とりあえず「やります」と言ってみることかな。その後にやり方を考える。考えて考えて、酒飲んで寝て起きるとアイデアが浮かぶ。それでもどうしてもできない時は、人に助けを求めればいい。そうすれば、だいたい、できる」

 ある時、このテーブルと同じものをつくってほしい、というオーダーがあった。まわりをぐるりと無垢の木で包んでいるのだが、つなぎ目がまったくない。一体どうやって作ったのか。何人もの家具職人に聞いてまわってもわからず、これは木じゃなく樹脂じゃないかと言われる始末。その部分には目をつぶって納品するという手もあったが、山田さんは何十件も電話して調べ上げ、ようやく特殊な技術を持った秋田の職人にたどり着く。

山田さん「無理なことをやると大変なんだけど、次からが楽になるね」

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 あの手この手で物作りに取り組んできたムラマツ車輌。リヤカー全盛期には作っても作っても納品が間に合わないほどだったという。だが昭和40年代にモータリゼーションが進むと、リヤカーは軽トラックに代わっていく。全盛期には十数社もあった大手リヤカーメーカーが、つぎつぎと廃業したり倒産していった。戦後の経済発展に貢献したリヤカーが、豊かになった日本では必要とされなくなるという皮肉。ムラマツ車輌にとっても苦しい時期が続いた。

山田さん「ほかはみんなうちより大きい会社で余裕があった。だから無駄もあったし、こう言っちゃなんだが無駄な人も抱えられた。でも景気が悪くなってくるとそうはいかない。うちはお金を無駄にしなかった、というか無駄にするお金もなかった。それと、大きい組織だとあれこれ決めるのも大変だけど、うちは全員が営業、全員が職人。決定も実行も早い。手間のかかるオーダーメイド、あまり儲けにならないような単品の仕事、新しいこと、なんでもすぐに取りかかれた。動きの悪い大手はそれがなかなかできなかったんだね。すごい量の発注が来た時はどうしてたかって?そういう時は、同業者や下請けさんに仕事をまわしてやってたよ。うちの利益は減るけどみんな喜ぶしね」

 ムラマツ車輌の「何にでも応える精神」はたくさんの小さく面倒な仕事を生んだが、それが顧客に信頼され、結果として次の新しい仕事、長いお付き合いへとつながっていった。取材前は「俺はこれしかやらねえ」的な職人気質な方かも、と予想したが、それはまったくの逆だった。山田さんの話ぶりからは、モノづくりへの確固たるこだわりと、そのほかのことへはまったくこだわらない、しなやかな精神を感じた。

山田さん「なんでも作りたくなっちゃうんだよね。宅配便関係の仕事が増えた時は、これからは電動アシスト自転車の時代が来るなって思って、都立産業技術高等専門学校の生徒さんと連携して電動アシスト自転車もつくったよ。なんせフレームつくるのは得意だからさ。一時はものすごく売れたよ」

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30年前、山田さんは国連と外務省からの依頼でタンザニアへ向かった。車がない途上国ではリヤカーが貴重な輸送手段。現地の人たちにリヤカー作りのイロハを教えてほしいという内容だった。

山田さん「リヤカーを輸出して彼らに売ることはできる。でも自分たちで作ることができたらいちばんだよね。人助けだと思って、溶接機とか切断機持って40日間行った。お国の仕事だから正直あんまり儲からないし、長いこと仕事場をあけることになる。でも当時はまだ景気が良かったし、そのぶんいいことしなきゃって思ったんだよね。リヤカーは鉄パイプとタイヤと溶接の技術さえあれば世界中どこでも作れるし、修理ができる。逆に最新技術のもの向こうに持っていったところで、壊れてしまったらガラクタになるだけだから。みんな一生懸命勉強してたよ」

 こうしてアフリカ初の国産リヤカーが誕生。タンザニアにはいまもたくさんのリヤカーが走っているそうだ。さらに今年は太平洋の孤島、マーシャル諸島へ教えに行く計画があるという。

山田さん「マーシャル諸島から大臣が来日して工場に来たんだ。いまは経済的にアメリカに頼らざるを得ない状況なんだけど、国として自立するためにリヤカーが必要だと。島だとガソリンは貴重でしょ。物を運ぶのは産業の基盤」

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 山田さんの人助けは海外に限らない。リヤカーづくりを通して、多くの人を応援してきた。

山田さん「困ってる人、頑張ってる若い子を見ると、つい何かしてやりたくなっちゃうね。1万円のものを8000円で売りたくなる(笑)。以前ラーメン屋台を故郷でやりたいっていう面白いイギリス人が相談に来たことがあってね。リヤカーといっしょに屋台の図面を書いてやってプレゼントしたよ。それから、浅草サンバカーニバル。学生サンバチームから、ダンサーたちがパレードで乗る乗り物を作りたいって相談があって、かっこいいのを仕上げた。そしたら優勝してね。お祝いで20万円くらい飲ませてやったかな(笑)。いまも代が変わると挨拶に来てくれるよ。あと、リヤカーで世界に冒険に出るという兄ちゃんもいた。組み立て式のリヤカーのアメリカ大陸を縦断するって。その時はパンクしても地球のどこでも修理できるよう、自転車のタイヤにしてあげたんだ。地球の裏側から手紙が届いたよ。滝壺に落ちてパスポートなくして、留置所に捕まってますって。びっくりしたよね」

 若者たちとの交流を語る山田さんは、じつに楽しそう。ちなみに先代の社長の娘さんもスイーツのお店をはじめるにあたり、屋台で売るスタイルからスタートしたという。ビジネスが成功した現在は都内に4店舗を展開。屋台はお店の中におさまっている。

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 いまの若い人に対して思うことはありますか?

「技術革新がすごいし、最先端のものを追いかけるのは大変だと思うよ。でも、みんながみんな同じとこいっても仕方ないから、昔からの物づくりにも目を向けてくれたらうれしいな。あと、なんの仕事でも基本を大事にしてほしい。基本をしっかりやってきたのが日本の強さだったからね。下積みをコツコツやるのは正直あまり効率的ではないかもしれないけど、いいこともある。新しいやり方をやってみて、もしそれがダメだった場合、一個前の段階に戻れる。それでまた別のやり方を試せる。下から積み上げていくというのは、そういうこと。いきなり最新のやり方を覚えてしまうと、そういうことができない」

 この半世紀。いい時代もそうでない時代も経験し、いまのムラマツ車輌と山田さんがある。これまでを振り返って、どうでしたか?

山田さん「リヤカーというものすごくシンプルなものに、たくさん教えてもらった。たくさんの人に出会わせてもらった。高級ホテルにもアフリカにも行けたし、リヤカー以外のいろんな物の作り方まで勉強させてもらった。いまも学ぶことはたくさんある。職人に100点はない」

 それから最後にこう付け加えた。時代が変わってもリヤカーは絶対になくならないよ、と。

 自分の大切な物を乗せ、自分の力だけで引くのがリヤカーだ。決まったレールはなく、その気になればどこへでも自由に行ける。それを作ってきた山田さんもまた、リヤカーのようにたくましく、自由な人だった。リヤカー、万歳!

  • 山田光男(やまだ・みつお)
  • 静岡県生まれ。ムラマツ車輛3代目社長。地元静岡の大手電機メーカー勤務を経て上京、昭和40年代にムラマツ車輛に入社。以来、半世紀近くリヤカーづくりに取り組んでいる。
  • EITA NAKAJIMA
  • CM Planner / / dentsu
  • 東京都生まれ、南千住育ち。1995年電通入社。CMプランナーとして数百本のTVCMを企画。社内シンクタンクである電通総研Bチームおよび食生活ラボの研究員としても活動中。